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いくつか違うんではないかなぁ、と思っているところを書いてみます。
> 学生運動を主体的にすすめていた共産党の学生組織である民青同盟や、それと対立す
> る新左翼党派はつぎつぎと新しいサークルをつくり、学友会は学生運動の対立、抗争
> の場と変わっていった。
50年代、60年代の岡大新聞や学友会の資料を読んだことがありますが、学友会が学生運
動の主戦場となっていた感じはないです。やはり学生運動は自治会がメインでしょう。
党派にとっても公認サークルを次々と作り、維持するのはしんどい。というかメリット
が少ない。
今と違って、当時、特に文化系サークルで政治について語り合うのはごくあたりまえの
ことだったと思いますが。
> この瞬間、岡山大学学友会は自らの運命を決定してしまったと言える。坂本氏を雇用
> するということは、大学との全面対決を意味していたからである。
そんなたいそうな考えはもってなかったと思います。それまで二部の学生などを雇って
いた総務事務員が空席になったことから、たまたま当時の総務が軽い気持ちで声をかけ
たと言ってました。坂本処分に対する抗議の意味はあっただろうけど、坂本さんが学友
会を引き回すことになるとは、誰も思っていなかったようです。
学生部も坂本さんが郵便物を取りにくることは拒み、総務委員が取りに行っていた程度
で全面的に対決姿勢はとっていませんでした。
確かに75年は大学祭実行委員会に103被告団を認めけれども、76年は民青系と非民青系
の対立で実行委員会が空中分解し、77年は元から実行委員会を募集せずに元から総務委
員会主催で大学祭を開催してます。
77年は映研や軽音フォークが総務委員を仕切り、大学祭ではりりぃの前座としてデビュー
間もないオフコースと浜田省吾を呼ぶという快挙をとげています。
坂本さんの影響を受け入れてしまったのはぼくら78総務だったろうと反省しています。
ちょうど75年当時のことを知っていた長老たちが卒業し、身近に学友会運営のことを
知っている先輩たちがいなくなり、実務的な面で坂本さんに頼ってしまったこと。
セクトのオルグに閉口し、疲れていたところに坂本さんの非マルクス主義的な大学闘争
論は新鮮であったこと。
昔の総務委員が坂本さんとはマージャン仲間であったのが、坂本先生と生徒という関係
になってしまったのかもしれません。
> 地域問題研究会、社会問題研究会はプロレタリア青年同盟という新左翼党派の流れを
> くむサークルであった。彼らは1973年には坂本氏の雇用を積極的に支持し事務嘱
> 託員としての雇用にも積極的であった。その彼らが反坂本派に転じたのである。派闘
> 争の色合いをもった転向であったかもしれないが、
「彼ら」というのが地域研、社研なのかプロ青なのかよくわかりませんが、地域研、
社研がプロ青になるのは77年ごろではないかと思います。まぁ、プロ青といえども党派
は誰が同盟員になったなんてわざわざ公表しませんけど。
それにプロ青は坂本さんの思想とはもともと相容れないでしょう。
こういった零細文化系サークルは体育系と違って伝統とか受け継ぎがされないのです。
75年の地域研、社研と79年以降(78年の三里塚3・26闘争で逮捕されたプロ青メンバー
が復学)ではまったく別の団体になっています。
それと坂本さんが78年以降暴走し、学友会運営への介入を露骨にしたことでかつて支援
した人たちもどんどん離れていきました。ぼくらもそうだったし、教授たちにも大勢い
ました。
中核派系も、82年の大学祭実行委員会では坂本さんらと対立したんですがねぇ、なんで
最後には坂本派になってしまったのかわかりません。
http://www.erde.co.jp/~masaru/
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